翻訳教室 ――はじめの一歩
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発行年月 : 2012年 / 2021年2月(文庫)
出版社 : 筑摩書房
筆者が2012年にNHKの番組の企画で行った小学生を対象にした翻訳のワークショップを通して、翻訳という行為の本質的な部分について語っている内容で、小学生を相手に語っている部分とのバランスもあってか、全体的にもひたすら平易な書かれ方で、すらすら読み切ってしまった。
外国語のテキストを翻訳するという行為が、いかに自分のそれまでの人生や価値観や得てきたものによって組み立てうるものであるのか、という話は、少し乱暴な言い方をすれば、翻訳のみならずあらゆる創作についても同じような事は言えるのだと思うし、あらゆる表現は翻訳的な行為だとも言える気がする。結局、究極的にはどれもこれも他者とのコミュニケーションなんだってだけかもしれないけど。
またワークショップの記録が記されている部分で、小学生が考えた訳文も出てくるのだけど、普通にセンスの良いものや、自分の中の理屈からは出てこないようなものもあってちょっと嫉妬した。
そこに「真の理解」がないと言って、関わりあいを否定するのは、ずいぶんわびしいことだし、翻訳という営みも成立しなくなります。他者の理解というのは100%に満たないものだ、というのを前提として、ならばあとはできるだけ近づこうとすること、その努力に、コミュニケーションの意義も翻訳の意義もあると思うのです。 (文庫, p38)
わたしたちが発する言葉というのは、ひとつひとつにその人独自の解釈が入り混じっています。言葉を使って話したり書いたりするというのは、その「解釈」ごと人に伝えること、だれかと言葉を交わすというのは、他者と「解釈」をやりとりすることなんです。 (文庫, p58)
でも、ものをどう読むかというのは、ふだんどういうふうにものを見ているか、ということなんです。おおげさに言うと、あなたがどんなふうに生きているかというのが、文章や訳文に表れるということです。だから、翻訳というのは自分をさらけだす作業でもあります。 (文庫, p116)
昨日読んだお話というのは、昨日読んでおしまいではないのです。みんなこれから一生、何回も何回も読むと思う。それはこの The Missing Piece という本を実際に読むという意味だけではなくて、折にふれ、頭の中で何回も何回も、何百回も再読していくということです。そうすると、そのたびに見方や感じ方が変わるんです。(...) あなたの人生が本に反映されるんですね、読み手のあなたが本に影響をあたえる。本を変えていく。 (文庫, p136)
Y「日本語で "it" にあたる言葉ってないんだよね。」
赤「『それ』じゃないんだ ? 」
Y「うーん、なんかちがう。『それ』とか言えないようなものに使う。わたしはバイリンガルだけど、込み入った話になると、英語に切り替えて話す。どうしてって訊かれるけど、 "it" にあたる語を日本語で言えないようなときに、英語に切り替わるの」
赤「英語をよく知ってても "it" って日本語にできないんだ ? 」
Y「日本語にないから。『それ』って言うと、意味がせまくなる」 (文庫, p144)
では、 I thank you. を「ありがとう」と訳すのは意訳だろうか(笑)。そんなふうにつきつめていくと、直訳と意訳の境がいかにあやふやなものか、わかってきます。 (文庫, p194)
うまく転んだずれというのは、往々にしてなにか真実を含んでいます。たとえば、笑いの衝撃とか、惨めさのエッセンスとか、いたたまれぬ実感とか、そういう、文章の内容そのものとは違うなにかの「真実」があって、それを連れてくることが多い。
そういった「真実」は、「読み」の力でとらえられるものなんです。